「本質を考える」力が、よりよい社会を創るための力になる
「おとなの対話の会 本当の話をしよう」第7回目を10月15日に開催しました。この対話の会は、毎月第3火曜日のお昼に、ベネッセ社員や、みらいキャンパスの保護者の皆様、講師、未来の学びデザイン300人委員会の皆様、教育に関心のある一般のかたがた等にご参加いただき実施しています。今回は、教育学者・哲学者の苫野一徳氏をお迎えし、「学びとはなにか」というテーマで哲学対話を行いました。その対話の様子をみらいキャンパス総合責任者の城座(しろざ)がレポートします。
■苫野一徳氏
哲学者・教育学者。熊本大学大学院教育学研究科准教授。2児の父。熊本市教育委員のほか、全国の多くの自治体・学校等のアドバイザーを歴任。令和6年度から道徳の教科書にも苫野先生監修の「本質観取」が登場している。
先行き不透明で、「正解のない問い」が増えていく時代に「学びの本質」を語り合う
まずは、司会の城座より、いま、なぜ「学び」についてあらためて考えてみたいのか、話題提起しました。昨今、学校を含む教育業界で起こっている各種の新しいメソッドの潮流は、すべて「学びをどうするか」という議論にもとづいて起こっています。PBL(Project Based Learning)も、自由進度学習も、「どう学ぶか」という話であって、「どう教えるか」とか「どう合格させるか」といった話ではありません。2020年度から文部科学省により発出された新学習指導要領の中で「主体的な学び」がうたわれてから、学習者が主体となる学びの在り方の議論があちこちでなされ、いまも試行錯誤が続いています。環境問題や世界各地で起こる紛争など、未来に向けて、正解のない問いが世の中に多く存在することからもわかるように、いま子どもたち、おとなたちが学ぶ意味も「正解をひとつでも多く頭にいれておく」ことよりも、「正解のない問いに自分なりの解を導き出す」ことが重視されるようになるなど、「学ぶことの意義」そのものが地殻変動を起こしているともいえます。そんな今だからこそ、あらためて「そもそも、どうして学ぶのだっけ。学びって何を指すんだっけ」と、その本質を見極め、自分なりの答えを腹の底に据えておくことが必要なのではないかと考えました。
事象や概念の「本質」を言葉にして編み上げあう「本質観取」
「学びとはなにか」の問いにとりかかる前に、「〇〇とはなにか」というお題設定をして、その本質を言葉にしながら対話を通して編み上げあう哲学対話の手法「本質観取」の意義や進め方を、苫野先生がレクチャーくださいました。
「よい教育とはなにか」「自由とはなにか」「幸せとはなにか」など、その概念をつくる本質的な条件を、対話の中で出し合っていきます。たとえば「よい教育とはなにか」というお題の場合は、「よい教育の事例としてこういうものがあるんじゃないか」「では悪い教育とはなにかも話してみよう」など、互いの考えを出し合い、言葉を重ねていくうちに、「どうやらこれがキーワードではないか」という言葉が見えてくる。そして「そのキーワードをつなげると、よい教育とはこういうことなのではないか」といった、「本質的な条件」が見えてくるというわけです。対話に参加するメンバーが「うん、たしかにこれは本質的な条件といえそうだ」という「皆が納得できる答え(共通了解)」に行きつくことができると、その本質的な考えが、各自の腑に落ちた状態で残り、その対話ののちに、「ではよい教育をつくると考えたときに、具体的には何をしたらよいか」と考えるような機会にも、より自分なりに納得できる考えを編み出していくことができるようになります。また、学校や企業などがチームで「よい教育をつくっていこう」というアクションをするときにも、「よい教育とはなにか」の共通了解が前提にあることで、より「チームとして本来進みたい、本質的な方向性」にかなった施策や考えが生まれてくる可能性が高くなります。
哲学対話では、沈黙もOK
苫野先生が、哲学対話のグランドルールをこちらのように説明されたとき、参加者の多くが「沈黙もOKなんだ!」と心のうちで驚きました。
日常生活のさまざまな対話の機会で、沈黙を避けようとしたり、埋めようとしたりすることはよくあります。そのために、気持ちが急いてしまったり、本当に心の奥底で考えていることとは違うことを口走ってしまったりして、あとから「あれは本意ではなかったなあ」などと後悔することもあります。子どもなどは特に「黙っているようで、実は心の中でじっくり考えている」または「言葉にならない、心のモヤモヤを感じ取っている」ようなこともあるでしょう。それを、グランドルールとして、「それもいいのだ」といってもらえることで、「なるほど、それなら本当に自分が考えていることを出しあえるし、それ以上のことは無理して出さなくてもよいのだな」という安心感のようなものが芽生えてきました。このように、苫野先生のレクチャーにじっくり聞き入り、納得したところで、そのあとの哲学対話の時間を、わくわくした気持ちで迎えることとなりました。
子どももおとなも自由に考えを出し合う豊かな思考と対話の営み、哲学対話
いよいよ、哲学対話がはじまります。今回、対話に参加するのは、小学4年生のひかひか、5年生のまんちゃん、広瀬さん(まんちゃんのお母さん)と、はやてさんです。まずは、「これは学びだったなあ」と思う事例を出し合います。失敗から学んだこと。自分の中にはなかった感覚を経験から学んだこと。知らなかったことを知ることができたときに「うれしい」と感じることなどが出されました。出し合った言葉の中から、共通の考えやキーワードを見つけていく段になると、「学びは続いていくもの」とか「自分のやりたい、知りたい、から始まっている」などの言葉が編み出されていきます。
短い時間の中でしたが、最終的に行きついたのは、「学び」とは、「やりたい、知りたい、こうありたい、という自分の願いや欲求から始まる気づきの連続である」「だからそこには嬉しさがある」という言葉でした。
大きな構えのファシリテーションが、自由な思考と、率直な表現を受けとめていく
参加者の私たちが目撃していたのは、苫野先生が、穏やかに、にこやかに、代表選手の言葉や沈黙の様子を受けとめつづけていたこと。そして、言葉を丸めすぎたり、言い換えしすぎたりせずに、それぞれから出た表現をやさしく編み上げていったこと。対話に参加した4人の代表選手のだれもが「自分の考えを受けとめてもらえた」と感じ、「みんなで本質を編みあげた」という本質観取の喜びも味わっていました。苫野先生のファシリテーションがあまりにやさしく、豊かだったので、その後の放課後タイムで「何を大切にファシリテーションされていたのですか」とお尋ねしたところ、「本気で信じる」とお答えくださいました。苫野先生が、その4人を信じる。圧倒的に信じる。シナリオをつくらない。誘導しすぎない。各自から出てくる率直な言葉の端々を信じて、受けとめ、ひとつひとつを大事に編み上げていく。ときに書き出してみる。ときに、心の中で反芻してみる。
その様子を「目撃」できたこの時間、見守った100名超の参加者の皆さんにとっても、城座にとっても、心豊かな時間となりました。
代表選手のひとりとして参加した、広瀬さんからこのような感想をいただきました。
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すごく穏やかで平和な時間でした。
「何を言っても大丈夫」な場で、自分の意見を自由に言えて、お互いに否定することなく、お互いの意見を受けとめあって、対話を進める。
誰かが正しくて、誰かが間違ってる、じゃなくて、みんなの意見がそれぞれから発せられて、それらをみんなで考える。ジャッジするのではなく、より本質を捉えている言葉をみんなで探していく作業。
大人にも必要だし、これから生きていく子どもたちには、ぜひやってほしい!
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こうした「対話の機会」を日常の中であたりまえのようにもち、おとなも、子どもも混ざり合って、互いの考えや言葉を重ね合い、受けとめあって、共通了解を見い出していくことが、みんなが望む未来を創っていくという考えにも重なっていくのだと、あらためて確信もしました。他者を信じ、対話を楽しみ、物事の本質を見い出していくという、哲学対話「本質観取」を心豊かに体感できたのは、苫野一徳先生のお力あってのことでした。今回の対話を通して学んだ私たちが、きっとまた新しく豊かな対話の場、学びの場を創っていくことで、苫野先生にもご恩返しをしてまいりたいと思います。苫野先生とお話がしたくて、もっと感想を言い合いたくて、多くのかたが、「放課後タイム」にも残ってくださいました。苫野先生、参加者の皆様、代表選手の皆さん、豊かな時間をご一緒くださり、心よりありがとうございました。
「おとなの対話の会 本当の話をしよう」は毎月、趣向を変えながらすすめてまいります。次回は11月19日(火)のお昼です。「ウェルビーイング・ダイアログ」で、幸福度アップにつながる問いをもとに、参加者同士で対話を重ねていきます。無料でご参加いただけるオンラインのカジュアルな会なので、前回お越しくださったかたも、次が初めてのかたも、ぜひお気軽に立ち寄っていただけましたらうれしいです。ご一緒に、皆さんそれぞれの「本当の話」に耳を傾けあっていきましょう。
<今回の「本当の話をしよう」の苫野先生によるトークパートの録画はこちら>
(約50分)
<次回11月の「本当の話をしよう」のご案内>
■詳細ご案内はこちら(PDFが開きます)
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https://bit.ly/3C1MkAh
城座多紀子 Takiko Shiroza (みらいキャンパス総合責任者)